思いつきの羅列(2):上杉達也を“アスリート”と呼べるか

昨日の日記で言及したオタクビンゴについて、思いつく番組タイトルを列挙し「スポーツアニメ」かどうか意見を闘わせたところ、総括的な定義を明確にするには至らなかったものの、個別作品についてはなかなか興味深い意見が出てきた。

ドカベン」         ⇒文句なし
「豪Q超児イッキマン」    ⇒え〜っと・・・
疾風!アイアンリーガー」  ⇒良しとしよう
「タッチ」          ⇒う〜ん、合格
キン肉マン」        ⇒ダメ

とりあえず、上に挙げた各作品の主要キャラがスポーツに対してどういうスタンスを取っているか、そのあたりをとっかかりに議論していけばいいではなかろうか。


さて、「ドカベン」「イッキマン」「アイアンリーガー」のキャラクターに共通して言えることは、
そのスポーツ自体が彼らの(基本的な)目的
である。


大枠として彼らには甲子園優勝、バトルボールリーグ優勝、アイアンリーグ優勝といった具体的な目標設定が予め為されている。
そして、そのゴールはいずれも“スポーツの枠内”に留まるレベルのものである。
彼らの物語は競技場に始まり、競技場にてクライマックスを迎えるのである。


ただし、必ずしもスポーツにプライオリティを置かないキャラクターも上記の作品中に存在する。
代表例としては「ドカベン」岩鬼・殿馬の両名である。
彼らはそれぞれ「夏子はんに格好いい姿を見せる」「ピアノの表現力を広げる」点について野球と同等のモチベーションを有している。


それでも「ドカベン」が「スポーツアニメ(漫画)」たり得ているのは、彼ら二人が物語を支配するキャラではないからである。


では、物語を支配するキャラがスポーツにプライオリティを置かない場合はどうだろうか。


「タッチ」上杉達也にとって、甲子園で優勝することが彼の物語のゴール足り得るだろうか。
否。
上杉達也にとっての野球は、亡き弟の夢を叶えることで、弟との相克を乗り越えるためのものである。
彼の物語のゴールは甲子園優勝なんかではなく、和也の影を振り切ることでようやく口に出せた“あの一言”である。


てな感じで、「スポーツアニメ(漫画)」の定義として一番扱いに困るのは架空のスポーツや非人間キャラでなく、スポーツが自己実現の間接的な手段にとどまっている作品構造ではなかろうかと。


「スポーツアニメ(漫画)」の必要条件を単純化すると

(a)主要キャラがスポーツ自体を自己実現の目的としている
(b)あるいは、自己実現の手段として高い比重を置いている

(b)については「タッチ」を判断基準とするぐらいで良いのでは。
(「タッチ」をボーダーラインのどちら側に置くかについては、稿を改めて語りたい。)


最後に、「キン肉マン」が「スポーツアニメ(漫画)」でない理由。
確かに、作中における“超人”たちはその力の誇示・比較を超人オリンピックというスポーツ的な枠組み内で行なっている。
悪魔超人などとの戦いもプロレス的な構成で行われている。
しかし、彼ら超人の本来の目的は“地上世界における秩序と平和”の実現である。
このように、スポーツどころか個人的な自己実現の枠を大きく逸脱した者を“アスリート”と呼べるだろうか?
(だから“超人”な訳だな)







(※.こういう風に書くと「国家の威信をかけて闘うアスリート」を認めてないように見えるが、実際そうした動機付けは“アスリート”としての純度を下げるとワタシは思う)





ところで、「アイアンリーガー」は「スポーツアニメ」たり得るとして、同時に「ロボットアニメ」たり得るのだろうか?
(つづく)