「愛国心」を教える前に「愛する心」を教えよう

意識して妄言を吐いてみたが、案外いいことを言ってるのではとも思う。


なぜワタシは愛国心とゆーモノに抵抗感を感じるのか考えてみた。
愛国心というのが「ボクは国を愛している、それだけでボクの心はシアワセだ」みたいな自己完結するような愛でなく、他者への何かしらの呼びかけ(もしくはそれ以上のアクション)を必然とする所がワタシの心に引っ掛かってくるのである。
そういう押し付けがましいのは苦手なのである。
「愛国心」という言葉には言外に「国を愛さない者は○○○○(適当な罵詈雑言を入れてね)」という意味が込められてるんではないかと勘繰ってもしまう。
余分なモノが一杯くっついていて、ワタシにはどうにも重たい荷物なのである。


「愛国心」に比べると抵抗なく受け入れられる「郷土愛」なる言葉。
郷土愛の対象となる共同体とはどこまでか?
ワタシにとっての共同体とは「生まれ育った小さな町」であって、その外側は十把一絡げで“共同体の外部世界”である。
より正確に言えば、テレビや新聞や書物やネットからの“外部情報”で構築された“世界という概念”(他社との認識共有の度合によってはヴァーチャルな世界と表現した方が良いかも)に過ぎない。
従って、ワタシにとって日本と地球と宇宙は等価である。(それどころかジョーカー星団とも等価だ)
そうした観念の中で唯一卑近なものである「共同体」をスッペシャルなモノとして祭り上げる行為に、心理的な抵抗を感じる余地など一切ない。


とりあえず、
「新作アニメを週に何十本も放送している日本をワタシは熱烈に愛しています。」
お後がよろしいようで。