柄にもなく少し考え過ぎてしまった

 オタクたちの「卒業」しない生き方。 - Something Orange

好きなものをある日突然嫌いになるのは難しい。
それまでの「好き」をなかったことにするのは、自分のかけらがどこかに零れ落ちているようで寂しい。


子供の頃に周りのみんなが「卒業」していったのを思い起こすと少しかなしい。
何だか、みんなひとつ前の「好き」を躍起になって否定していたように、今となっては思えてくるので。


上の記事でkaien氏はこのように仰っている。

たぶんね、成長するにつれ、子供時代を「卒業」して行くべきだと考えるひとたちは、「成長」という概念を、「脱皮」と捉えているんですよね。
昨日の自分を脱ぎ捨てて、新しい自分に生まれ変わっていく、そのくり返し。
でも、ぼくにとっては、「成長」とは、「拡大」なんです。少年時代の自分はそのままに、その上に新しい自分を積み上げ、視野と認識を広げていく。それが「成長」。


今の“ワタシ”には連続的かつ無自覚な変化を何度も繰り返していくうちに「大人」になっちゃってたと認識できているが、少年期の“ボク”にはそうした視座を持つだけの体感的な根拠がなかった。
「大人」になった経験が。


だから「大人」になるためには何かしらの「飛躍」が必要なんじゃないかな、なんて思ったりもした。
その時々の「好き」を幾重にも積み重ねていくことよりも、新しい「好き」にジャンプすることにこそ真実があるんじゃないかと思ったりもした。


でも“ボク”はどこにも跳ばなかった。
多分、本質的に変わることが怖かったんだと。
だからみんなが跳ぶ時にも、体育の時間に校庭の片隅で膝を抱えて見学してる子供のようにその場へ留まり続けた。
“他人と違う”ことを自己主張することで、変わらないことを正当化するだけの小賢しさは持ち合わせていた。
だからそういう風に生きてきた。


選ばないことを選んだのかもしれない。


そんなことを積み重ねていった証として、今ここに“ワタシ”が居る。
いろんなモノを振り捨てていかなかったせいか重たくなった身体は、もうどこにも跳べはしないけど。
「それも悪くないんじゃないか」と言えるだけの余裕を持てるようになった、それだけが自分に誇れる「成長」なんだろう。


でも、こんな風に思考が迷走するのは“ボク”の頃から変わらない。