感情の生き物

ここ数日のテレビ報道で目立つのが、「光市母子殺害事件の差し戻し審」「奈良県立大淀病院の産科医提訴」のセットでの取り扱い。
本村氏に続く"この世の理不尽と戦うヒーロー"を造り上げて躍らせようという営業努力に加え、この二件を同列に扱うことで「どうしようもない事故」を「悪意に満ちた犯罪」へと印象操作し、マスコミ批判を封じようとする意図が透けて見える。
(しかしまぁ第一報をあげた毎日の記者がただいま産休中だってのは皮肉に満ちた現実だ)


いずれにしても、本件は判決を待つまでもなく「民事訴訟された時点で医療界全体にとっての敗北」であり、ただでさえ加速している医療崩壊を積極的に後押しするものである。
ネット上では心ある医師の方々が現在の悲劇的な状況に対して多くの提言を行っているが、大勢としては医療崩壊の不可避性を全面的に容認し、その上で何をすべきかというところに思考の力点が移っている。
難儀なことに、現状ではこれ以上に建設的な考え方がなかったりする。


メディアリテラシーの向上は当然のことながら、現状の医療体制への満足度が不当に低いことを自覚する必要が我々にはある。
焼け野原からの一日も早い復興を望むなら。


などと建前をほざくことはできても、自分が身内の死と直面した時に如何に処することができるかは分からない。
だからして、その時が来るまでに色々なことを考えておく必要がある。
こんなニュースを見ればなおさらである。


和歌山県立医大で患者の呼吸器外し…医師を殺人で書類送検(22日;読売新聞)


「事件」のアウトラインは以下の通り。

・患者は80代の老人で、脳死状態
・呼吸器を外したのは家族の意思に基づいてのこと(医師は二度断っている)
・鑑定からの見解は、外さなくても2〜3時間で死亡とのこと
・国や医学界による延命措置中止の指針確立はいつのことやら

家族の感情には同情すべきものもあるが、一番貧乏籤を引くのは医師であることに無自覚ではなかろうか。
報道でも、患者の身内の名前は出ないのに対して病院名はデカデカと出てるし。


一度付けた呼吸器を外すことは「殺人」なのだから、呼吸器を付ける時点でそのことを家族は強く認識する必要がある。
とは言え、自分の親が死にかけてる時に感情論を蹴り飛ばして正論を吐くことが出来るだろうか。
やんなきゃいけないのではあるが。
(正直、そんな状況になった場合には身内と絶縁するぐらいの気構えを持たないといけないかもしれない。
ウチの両親は"受け入れがたい正論"への抵抗が割に少ない人間なので、正気なうちに遺言でも書かせておこうか。)


余談;
ワタシがほぼ毎日ROMってるYosyan先生の「新小児科医のつぶやき」で紹介されたブログ
 記者の質がすごく落ちている:なんでこないに好きなんかな〜 難儀やなあ
において、奈良の一件に関する報道側視点の推移が検討されているので一読の価値あり(医療問題に限らず、メディア・バイアス全般につながる根深い問題)。