本を読むというのは難しいことなのだろうか

トップページにこんな質問が載っていた。

僕は、子供のころに殆ど本を読まずに大人になってしまいました。
皆さんが、「まさか読んだことあるだろう」という本についてもおそらく全く読んだことがないと思います。
たとえば、「ライ麦畑で〜」という本も最近まで知りませんでした。そんな白い目で見られる日々です。


こんな僕に、お勧め、というよりは、「定番」という本をできる限り沢山教えてください。


※一度の回答で、最低7冊は答えてください。

そもそも「読んでないと恥」である本が存在するのかどうか知らんが、「〜という本の存在」を知らなくて恥を掻くケースは何となしに多そうな気もする。
ワタシは比較的本屋に行く回数も多く、フロントにどんな本が並んでいるかサラリと見る習慣も付いているので、読んだことのない本のタイトルだけはムダに知っている(運が良ければ帯文も記憶に残る)。
ワタシの人生で読む必然性のない、あるいは読むタイミングでない本を、「話題に乗り遅れないように」「知らないと恥ずかしいので」などの“実用的”な目的で読むのは本に対する一種の冒涜に当たりそうな気もするので、そんなものは読まずに知識だけ仕入れておけば良いのだ。
だからして、質問者の人のような気まずい状況にはならずサラリとごまかすスキルは必要な程度に身につけている。



さて、そこそこ読書量の多い人でも、一般的に高い評価を受けている本を実際に読んでないという心当たりはかなり多いことと思う。
実際、ワタシが「ライ麦畑」を初めて読んだのは今年のGWである。
人並み以上の読書量と自負していても、やはりこういった読書遍歴の偏りは否めない。
「ちゃんとした本」を読まなくても「ちゃんとした大人」になるという実例だろう(他人に言われると言葉の裏を読んでしまうので、自分で言っておく)。


ところで、「定番」すなわち「読んでいて然るべき本」なんてこの世に存在しないのではなかろうか。


友人に分かり易いよう、アニメを例に話してみよう。


今年で35になるワタシはファーストガンダムをオンタイムで見てガンプラブームに乗っかった世代の最後端に当たる(世代的にクローバーのガンダム玩具も経験)。
それ以前のアニメの流れ(ヤマトのあたり)をある程度雰囲気として認知しており、その後の四半世紀の流れを実見することで相対的なガンダムの位置づけというものを充分に(あるいは必要以上に)理解できている世代である。
そんなワタシにとって、ファーストこそ「見てなきゃオカシイ」アニメ作品であった。


ただ、一回り世代を経ることでそういった認識はいっさい通用しなくなる。
以前に日記でも書いたが、20代前半の若者との間にファーストについての共通認識を持ち得なかったことでヘコんだ覚えがある。
アムロ・レイが「スパロボでよく避ける茶髪のオッサン」と認知されてたりする事からも分かるように、ファーストですら所詮は乱立するアニメ作品の中に埋没しつつあるOne of themに過ぎないのだ。


ワタシがファーストへ見出した価値に、さらに普遍性を求めるなんて事はしちゃいけないのだ。


文学についても似たような状況ではないかと思う。


かつては文学が純文学と大衆文学の二項対立状態にあり、純文学=芸術=高い価値という認識が暗黙のうちに植え付けられていた。
しかし、細分化され尽くしたマーケットの中でそういった単純明快な価値基準は崩壊してしまった。その時読まれている本にしか価値はないのだ。
そんな状況で、世代間の共通認識として決定される「読んで然るべき本」というのは、一体どのようなモノか?
芥川と西尾維新が等価たり得る21世紀に“スタンダード”と称して不足のないものを何処に求めるべきか?
それは国語教師や本屋といった商売で本と関わっている人間が安易に答えを出してはいけない問いなのだ。


だからして、「何を読むべき」なんて泥沼にハマるような事を考えて本を読まなくてもいいのだ。
その時々の自分が見出した本に対し、真摯な愛情をもって抱きしめるだけでいいのだ。


僕はただ、ひとりの“読子さん”でありたい。
それだけでいい。



いささかズレた私見を述べて気が済んだので話を換えるが。
果たしてこの質問者の人は紹介された膨大な書籍に対してどんなアクションを取るのか?
まさか全部読んでくれるのだろうか?